江戸時代、勤務中でも酒が飲めた
これは越後村松藩3万石の定免制から検見制へ移行する時に出された、お触れの一部です。
ちょっと、説明しておくと、定免制とは不作でも豊作でも、年貢は一定で変わらないってこと。
検見制とは不作なら、年貢はそれを考慮し ...
越後村松藩の無茶苦茶な増税策
新潟県の中央部に村松(市町村合併で五泉市)ってとこが、あります。
ここには、江戸時代に村松藩っていう3万石の小さな藩がありました。
この藩が財政難で、増税に打って出るわけですが、以下がその増税策の一部。 ...
越後三条出身の飯盛女、上州に果てる
新潟県、三条市ここは金物の町として、全国的に有名かどうかはわかりませんが、飯盛女(売春もやる)を置く、旅籠(旅館)が40軒余りありました。
旅籠には、飯盛女を一軒につき3人まで雇えたんで、最大で120人余り、最小で40人余 ...
越後村松藩の苛政
越後の国(新潟県)村松(五泉市)に、村松藩ていう3万石の藩がありました。
藩主は、堀家で江戸時代の初期から、明治維新の戦いを経て版籍奉還に至るまで、転封されることもなく代々治めていました。
代々治めるのは良いん ...
天保の大飢饉と飯盛女 その2
新潟県に三条市っていうとこが、あります。
ここは今、三条市のホームページをみると、人口が96968人てあります。
俺は風俗は暗いんで全然わからないんですが、確かソープランドは一軒もありません。
ホテ ...
天保の大飢饉と飯盛女
天保4年(1833)の冬から翌5年(1834)の春にかけて、江戸では俗に「菰」かぶりと呼ばれた乞食の群れが目立って増えた。これらの乞食は、みな他国から流れてきた、飢饉が生んだ被災者の果てであった。水呑と呼ばれた下層農民の多くは、年貢が ...
明治維新 用無しになった、奇兵隊の最期
高杉は藩内戦が集結に近づいたころの慶応元年(1865)3月5日、佐世八十郎(前原一誠)にあてた手紙に「此後は御国内規律相立ち、土民は農に帰り、商夫は商を専にし、県令等も人才御撰びに相成り、速やかに差し出され亅云々と述べている。高杉ら上 ...
長篠の戦い 織田が兵農分離した先進的な軍隊で、武田が遅れてたっていうのは嘘
「織田信長の軍隊といえば、「兵農分離」の軍隊(職業軍人)の精鋭であり、先進的性格を有していたとよくいわれる。これに対し、武田勝頼の軍隊は、郷村の土豪、有徳人、有力百姓層を動員した軍役衆(在郷被官)の比重が大きく、「兵農未分離」の軍隊( ...
長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦奇襲が失敗したら、どうなったのか
長篠の戦いの決戦の前に、織田、徳川軍は鳶ヶ巣山砦に奇襲攻撃を仕掛けて、攻め落としその結果、武田軍は前と後ろに敵を受けることになり、袋のネズミ状態になって大敗した。
現代の我々はこの作戦が、成功したのを知っているけど、当時作 ...
長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦を落とされたとこで、おしまいdeath
天正3年(1573年)5月21日、設楽原の決戦の直前に、織田、徳川軍の別働隊が武田軍の鳶ヶ巣山砦を攻め落とし、長篠城を開放して、包囲していた武田軍も打ち破った。
鳶ヶ巣山砦と長篠城正面の大通寺陣地には、食料集積所、その他軍 ...