江戸時代、勤務中でも酒が飲めた

これは越後村松藩3万石の定免制から検見制へ移行する時に出された、お触れの一部です。

ちょっと、説明しておくと、定免制とは不作でも豊作でも、年貢は一定で変わらないってこと。

検見制とは不作なら、年貢はそれを考慮して少なくなるし、豊作ならいっぱい取れたから、年貢が増えるっていうこと。

ここで注意が必要なのは、定免制なら3年から5年に一度くらいの検見で済むし、それ以外には不作検分のみで、やってくる役人も代官の他は小人数で間に合う。

これに対して、検見制は毎年ていうことんなるし、役人も郡奉行が1名、代官2名、徒目付1名、郡方下役1名、郡方書役1名、手代5名、地足軽1名。

他に、郡奉行と代官には若党や草履取りが付き、徒目付には共人がつくから、総勢20名くらいになって、村の接待費が高くなる。

以下が、村に出されたお触れ。

1、立見の時は、賄い料理は一汁三菜と軽くし酒は3べん限りにせよ。もっとも朝夕昼飯の時のほか、一切酒を出してはならない。賄いの入用については元文5年に定めた通りに心得よ。

1、立見の場所へ駕籠で出役することは、堅く禁ずる。全て古例の通りに心得よ。

1、音物については、きめられているほかの不相応なものを出す者があれば、その品を留め置いて申し聞かせよ。

見附市史編集資料8

今まで、定免制で3年から5年に一回で済んだのに、検見制になって毎年になるだけでも大変なのに、それが人数までドーンと増えるんだから、お百姓さんにすれば堪ったもんじゃあなかっただろう。

これで納める年貢が、検見制になって減れば良いんだけど、こんな藩だからそんなわきゃあなく、間違いなく増えただろう。

それだけではなく、朝昼夕と食事を出して、飯は一汁三菜で軽いもんにせよだの威張りくさった物言いで腹立つのに、朝昼夕飯時に酒まで出さなきゃ駄目で、その他は酒は出してはならないなんて恩着せがましく、バカじゃないの。

昔、組合の旅行に行った時は、朝はバスん中で酒と缶ビール、昼は飯が出るけど、研修っていう建前でおっきい会社に行くんで、酒は出なくて、そこを出てからバスの中でまた、酒かビール飲んで、夕飯は宿で酒が出て飲めるだけ飲んでたけど、ここに出てくる侍は観光旅行に行ってるみたいだ。

検見なんて現場仕事に出てくるような、下っ端の侍が百姓にたかれるだけ、たかってるだけ。

こんなのは、時代劇じゃあまず絶対に出てこない。

出てくるのは、昔の水戸黄門に出てくるような悪代官と悪徳商人のシーンで、千両箱の小判を渡して、お主もワルじゃのうなんてのばっかで、ペーペーの侍もお百姓さんに結構たかってます。

ペーペーの侍に言わせりゃあ、タカってるんじゃなくて、当たり前の百姓の務めですってことなんだろうな。

音物ていうのは、お土産ってことなんだろうけど、決められているほかのっていうことは、お土産も出さなきゃいけないんだから、朝、昼、夕食のたんびに酒は出さなきゃいけないし、お土産まで出すことんなってるって、侍は良いけど、お百姓さんは侍の接待はさせられるは、定免制から検見制に変わって、多分年貢は上がるは、検知に来る侍の人数は増えるはで、踏んだり蹴ったり。

身分制も明治維新でやっと終わるわけだけど、それも西欧列強とアメリカの外圧があって、やっと終わった。

それがなければ、まだまだ続いたんだと思う。

日本てのが、周りを海で囲まれた絶海の孤島のような島国だから、浮世離れした国なんだと思う。

外圧は、あったほうが良い。


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Posted by shigeziro703