越後三条出身の飯盛女、上州に果てる
新潟県、三条市ここは金物の町として、全国的に有名かどうかはわかりませんが、飯盛女(売春もやる)を置く、旅籠(旅館)が40軒余りありました。
旅籠には、飯盛女を一軒につき3人まで雇えたんで、最大で120人余り、最小で40人余り、飯盛女がいたことになります。
飯盛女になった女の人は、三条専門に勤めていたわけじゃなくて、江戸や上州(群馬県)まで行っています。
江戸川柳に「傾城となるも越後の1つとふしぎ亅というのがある。江戸の人たちにとって、越後は山深い雪国というイメージが強く、そんなに遠い田舎女が江戸へきて遊女になっているのが奇異に感じられた。「世事見聞録亅にも、「国々の内にも、越中、越後、出羽辺りより多くでるなり亅とあり、これらの国々が遊女や飯盛女を最も多く産み出す国として挙げられている。いずれも、一毛作の地帯だけに、作柄の如何がこのようなことにつなたがったとみてよい。亅
三条市史より引用
飯盛女に出すほかなくなってるような家は、小作人だろうから、不作になっただけで、地主に払う小作料にもことかいて、娘を売るほかなくなるくらいに追い詰められる。
これは、江戸時代だからってこともあるけど、明治維新になっても基本的に地主と小作人の関係はそのまんまだったんで、昔「おしん亅っていうNHKの朝ドラがあったけど、娘は飯盛女までいかなくとも、子守奉公などに出されて、男も奉公人に出されるっていうことに。
これは、1945年の日本の敗戦による、アメリカが主導した農地開放によって、やっと終わることに。
アメリカに負けて良かった、これがなけりゃあ未だに地主と小作人の関係が続いてたかも。
三条から、中山道倉賀野宿で、飯盛女として働き、死亡した女たちの墓がこの宿の九品寺に三基残っている。越後三条浦館村 こよ墓 頓覚尼 享保3年5月29日、越後代官嶋村女 へそ墓 観了尼 享保3年6月3日、越後三条 久兵衛女 りよ墓 稀月尼 文化3年正月3日 三条から倉賀野の宿に出て果てた3人の飯盛女の場合を見ると、享保3年(1718)に死亡したこよ女とへそ女の2人は、冷害のため大飢饉となり、その災禍が日本全土に及んだ元禄14~16(1701~1703)の残した貧窮の結果、異国に稼ぎに出されたと考えてよいのではなかろうか。また、文化3年(1806)に死亡したりよ女の場合は、天明2年から7年(1782~1787)に至る6年間にわたる連年の冷害による凶作によって、餓死者が続出した天明の飢饉後であることから、飢餓の影響を考えずにおれない。
三条市史より引用

越後の三条から上州の倉賀野まで、飯盛女として売られて、その地で死亡。
江戸時代に飯盛女として売られてしまえば、梅毒や淋病などの性病の予防なんか無いだろうし、病気になってしまっても、まともな医療など受けられるわけもなく、若くして死亡なんてことんなったんだろうな。
先祖が大名でしたとか、高禄の武士でしたとか、大地主でしたっていう人を除いて、この国の大多数の人間は飢饉が来れば、娘を売らざる負えないような貧農の出が多いだろう。
生活保護を受ける人間をナマポなんていって、バカにする風潮、恥と考えるような人がそこそこいるようだけど、国民の当然の権利で、なんら恥じることなどない。
こんな時代に戻らないようにするためにも、セーフティネットは絶対に必要だと考える。
参考文献 三条市史 三条市史編集委員会編著 三条市

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