越後村松藩の苛政
越後の国(新潟県)村松(五泉市)に、村松藩ていう3万石の藩がありました。
藩主は、堀家で江戸時代の初期から、明治維新の戦いを経て版籍奉還に至るまで、転封されることもなく代々治めていました。
代々治めるのは良いんだけど、この藩は越後で苛政を行う藩として有名で、一に村上無慈悲、二に村松、三に長岡といわれるくらい、一般大衆には厳しい藩でした。
その苛政の具体的な証拠として、以下のような記録があります。
江戸時代、約260年間に大飢饉と呼ばれるものは3回あった。しかし、地域的な飢饉の回数はさらに多い。「嵐渓史」、「守門風」には下田郷には9回の飢饉があったと記してある。「嵐渓史」によれば、寛永の大飢饉には、その死する者多く、長沢村では死体の始末に窮して鍬で地面を区切って始末する区域を定めたというし、延宝2年(1674)の飢饉には草木の根は食い尽くされ、田螺(たにし)の類までことごとく取り尽くされたという。また、藤崎家文書の中にも「延宝6年、葎谷村、遅場村、吉ヶ平村餓死人数調書写」があり、これによると宝暦5年(1755)12月から翌年7月までの間に餓死した者32人、食べ物を求めて出奔して行方不明になった者30名と記してある。天明の飢饉の時もかなりな惨状を呈したようである。
三条市史より引用
草木の葉っぱじゃなくて、根まで食い尽くしたって書いてあるんだから、悲惨すぎる。
雑草の根なら食えるけど、木の根なんてどうやって食べるんだ?
食ったことないから、わかんないけど、多分お湯で相当煮るんだろうな、そして家族で美味しくいただけるわけが、あるわけないか。
「木の根って美味しいね、お父さん」なんてことには、なんないだろう。
草木の葉っぱを食い尽くして、根までいったんじゃあ、既に田螺(タニシ)は食い尽くして、食えるものなんて、なんにも無かったんだろう。
もう、その段階までいったら、後は餓死するのも時間の問題だったろうな。
こんな食生活じゃあ、タンパク質がだの炭水化物の摂り過ぎが問題どこじゃなく、摂らな過ぎで死ぬ寸前ですって感じ。
江戸時代だから、村松藩のような苛政をおこなう者を嫌って、領民が逃げ出すことも出来ない。
領民の欠け落ちは、曲事(犯罪)として厳しく規制されていたんだけど、それでも上記の史料には、食べ物を求めて出奔して行方不明になった人間がいたって、書いてあるんだから、もう極限状態だったんだと思う。
今は空き地なんて、あっという間に雑草だらけになって、そのまま放置しておくと近所の住民から持ち主に苦情が来たりするけど、当時は雑草なんて食い尽くされてなんにも無かっただろうし、草木で腹が膨れるわけもないから、犬とか猫もいなくなったんだと思う。
しかし、これを書く参考に、色々なサイトを見てみると、武士側から見たものしかなく、特に戊辰戦争などはそうだけど、圧倒的多数の一般大衆の生活なんてのは、一顧だにされない。
日本人の先祖なんてのは、百姓、町人がほとんどなんだから、侍ジャパンだのいってないで、たまには先祖の生活がどんなだったのか、ってことを考えても良いと思う。
歴史になってしまった過去があって、それが現在になり、今の政治があるわけだから。


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