明治維新 用無しになった、奇兵隊の最期

高杉は藩内戦が集結に近づいたころの慶応元年(1865)3月5日、佐世八十郎(前原一誠)にあてた手紙に「此後は御国内規律相立ち、土民は農に帰り、商夫は商を専にし、県令等も人才御撰びに相成り、速やかに差し出され亅云々と述べている。高杉ら上士は、軍事は本来武士の仕事と考えている。だから平和が回復されたら、農商出身の兵士は元の職業に戻れと言うのだ。

こうした理屈を、最後になり藩は民衆側に押し付けようとする。しかし兵士になったのは、百姓の次男以下の者が大半で、帰郷したところで耕す田畑がない。だからこそ、軍隊に入って命がけで奮闘したという事情がある。はい、そうですかで隊を去れるわけがない。

山県有朋の「奇兵隊戦記亅 一坂太郎著 洋泉社

高杉晋作は平等主義者であったわけではないんで、幕府軍を迎え討つのに兵力不足なので、取り敢えず農民、商人を補充して兵力にあてただけで、それが終われば用済みっていうことで、これは最期まで尾を引くことに。

明治2年(1869)10月、山口藩は東京常備兵として二千名を差し出すことを朝廷に願い出、千五百名が許可された。こうして山口藩は諸隊から2250名を精選し、常備軍にするとの兵制改革を軍事局に指示する。ところが精選には身分が重視されるという一面があった。人数からすると、奇兵隊は諸隊全体の一割を占める。ところが奇兵隊に割り当てられた常備軍枠は60名だった。間もなく精選の前提と考えられる粛清が、開始される。奇兵隊では明治2年2月から9月までは13名に過ぎなかった除隊者が、10月には75名と急増した。11月は、11日までに11名を数える。

山県有朋の「奇兵隊戦記亅 一坂太郎著 洋泉社

ここでいう、東京常備兵とは公務員。

これに選抜されれば、公務員として身分が保証されるし、食いっぱぐれることがなくなるけど、選ばれなければ肩たたきで、除隊っていうことんなって、失業することに。

農民出身なら、次男以下なんだから、郷里に帰っても耕す田畑などなく完全失業状態に。

それも平等に選抜されるんなら、諦めもつくけど、武士階級出身者ばかり優遇されて、農民出身はクビじゃあ、頭にもくるだろう。

そしてこの大リストラをきっかけに、奇兵隊の壊滅的終幕へと突き進むことになる。

明治2年(1869)12月1日、奇兵隊、鋭武隊、振武隊、遊撃隊、健武隊、整武隊などの1200人あまりが山口を脱して宮市に集まり、この地を本陣として勝坂(現在の防府市)から山口までの間に18の砲台を築いた。そして藩への不満をぶちまける。さらに除隊して帰郷していた者も駆けつけ、その数は2000人にも膨れ上がった。これが、「脱退騒動」と呼ばれる諸隊反乱事件の発端だ。

山県有朋の「奇兵隊戦記亅 一坂太郎著 洋泉社

反乱軍とされた、脱走兵を慰撫する動きもあったんだけど、うまくいかず武力鎮圧を主張する木戸孝允が帰ってきて、討伐されることになり、初めは負けてはいなかったんだけど、強力な指導者もいなかったこともあり、脱退兵は各地で敗れ、首謀者の多くは捕らえられて、100名を超す脱退兵たちは逆賊として処刑され、奇兵隊は壊滅した。

結局、攘夷と幕府軍を迎え討つには、武士だけでは兵力不足なので、百姓、町人などを募兵して武士道精神を叩き込み、討幕に成功して日本の内戦が無くなったら、邪魔にされてクビ。

募兵される人間も、身分の上昇願望なんかもあったんだろうけど、武士に良いように使われて、運の良い人間は東京常備兵に採用されて公務員になれる人もいただろうけど、普通の人はリストラされて失業、もっと運の悪い人は処刑されて文字通りの首になった。

明治維新で栄光の部隊とされる、奇兵隊の最期の話でした。

安倍ちゃんも、松陰先生とは言うけど、奇兵隊の最期なんて絶対話さなかったもんね。😀

参考文献 山県有朋の「奇兵隊戦記亅 一坂太郎著 洋泉社


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Posted by shigeziro703