長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦を落とされたとこで、おしまいdeath
天正3年(1573年)5月21日、設楽原の決戦の直前に、織田、徳川軍の別働隊が武田軍の鳶ヶ巣山砦を攻め落とし、長篠城を開放して、包囲していた武田軍も打ち破った。
鳶ヶ巣山砦と長篠城正面の大通寺陣地には、食料集積所、その他軍事物資を保管していたはずなんで、ここを落とされたんでは、半沢直樹じゃないけど、おしまいdeathだったはずだし、武田勝頼はじめその他重臣たちも、こりゃ大負けだなと思っただろうし、死を覚悟したんじゃないか。
「信長公記亅に「川を前にあて、武田四郎、鳶ノ巣山に取上り居陣候はば、何共なるべからず候を、長篠へは攻衆七首差向け、武田四郎滝沢川を越来り、あるみ原三十町ばかり踏出し、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿河衆、遠江衆、三衆の内つくで、だみね、ぶせち衆を相加え、一万五千ばかり一三所に西向に打向かい備え、互いに陣のあわい二十町ばかりに取り合い候。亅とある。
武田軍は滝沢川を越えて、あるみ原を3km進んで布陣したってあるんで、越えてきた川まで、たったの3kmしかなくて、後退してもすぐ川があるんできついのに、後ろにも敵、前にも敵で完全包囲された格好で、おしまいdeathだ。
ここで武田勝頼は、前にいる織田、徳川連合軍を破れば問題解決ってことで突撃して大負け(場所は従来言われている、小さい山と山に挟まれた盆地じゃなくて、そっから西に2km行った平野だったと思う)しているが、他に方法はなかったんだろうか?
① 前の織田、徳川軍主力に突撃しないで、甲斐に向けて全力で後方に撤退する。
越えてきた川を渡るのが、大変でそこで捕捉されて挟み撃ちにされて大負け、川を渡らず山に逃げ込んでも、細い山道で大渋滞するに決まってるんで、ここでも捕捉されて大負けで、どっちも駄目。
② 戦わずに、武田軍陣地の山に立て籠もって、織田、徳川軍が諦めて帰るのを待つ。

上の写真のように抑えられちゃえば、武田軍は補給できずに、おしまいdeath。
これは、鳶ヶ巣山砦、大通寺陣地の食料集積所が敵に奪われてるんで、戦わないことにしたとしても、食い物が無くなって、餓死するだけでどうにもなんない。
織田信長の作戦勝ちってことんなるけど、逆にいうと武田勝頼、なんでこんなに間抜けなんだ。
川で守られた、絶好の防御陣地をわざわざ捨てて、敵が待ち受けているとこに出てったんだから、形からすると、飛んで火に入る夏の虫ってやつ。
武田勝頼は代替わりしたんだから、親の信玄との違いを打ち出そうとしたのかもしれない。
父親の信玄は着実に領土を広げたけど、慎重過ぎて天下には届かなかった、いわば、ローリスクローリターン。
俺は、慎重な親とは違って、ハイリスクハイリターンで行く、見てろよってとこだったのかも。
それが、おおはずれに、はずれたってことだったのかも、残念。

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