戦国時代 飯が食えない時、どうするか

「本土寺過去帳」の記録から、日本の中世っていうのは、毎年毎年、端境期に飢餓が訪れ、それによって多くの人が命を落としていく、庶民にとっては生存すら必ずしも保証されていない、苛酷な社会だったていうのがわかる。

そんな生活で、妻子を養っていて秋の収穫物からすると、冬を越せそうにないってなったら、どうするか?

俺なら、秋だからキノコ狩り、春んなったら、ワラビ採りとかゼンマイ採りとかが思い浮かぶけど、他人もみんなやってて、それでも足りないわけだから、道に生えてる雑草だな、雑草食って露命を繋ぐと。

こんなんで、餓死しないで済むなら、誰も餓死しないか?

それなら山に入って、カモシカだの鹿、猪、兎とかいっぱいいただろうし、川に行って魚採ってりゃ、なんとかなりそな気がするけど、なんともなんなかったんだろうな。

そこで、どうするか。

また、黒田基樹氏の「百姓から見た戦国大名」の引用になりますが、「謙信が関東に侵攻した永禄3年は、まさに東日本の広い範囲で飢餓状態になり、疫病が流行していた状態だった。それは、謙信の本国越後も例外ではなかった。永禄4年の2月から、北条氏の本拠小田原城へ向けて、進軍を開始した。ここには前年までに従属してきた国衆だけだなく、常陸、下野、房総などからも、多くの国衆たちが参陣してきた。謙信の進軍によって、相模をはじめとした北条氏の領国は、「国中山野の体」(妙本寺文書)、「山野の体、年月を経られば、いよいよ侍、人民共に退転すべし」(箱根神社文書)、「相州悉く亡国と成る」(赤城神社年代記録)と言われるような状態になった。行軍の過程で、容赦のない掠奪が繰り広げられた結果だった。亅

「それと対照的なのが、翌永禄4年3月に、謙信は越後国内に徳政令をだしていることである。前年の洪水災害からの復興を理由に出されている。国内のそうした危機に対しては、謙信も徳政令による復興策をとっていたのである。そうしたことから考えると、同時に行われた侵略戦争は、国内の飢餓対策の一環でもあったとみることができる。それはいわば、飢餓下での口減らしと、他国での食料確保の一石二鳥を狙ったものだった。」

「戦国大名の軍隊というのは、おおよそ騎馬一人につき徒(かち)の奉公人5、6人が付き従う、というかたちで構成されていた。そうした奉公人たちは、中間、小者などと呼ばれている。これがいわゆる足軽にあたる。その他に、兵粮などを積んだ小荷駄運搬を担う陣夫があった。それらは、支配下の村々から役(税金の一種)として徴発された百姓であった。」

これから考えられることは、武士がそれだけでは生活できないから百姓仕事をやっていたんではなく、百姓が生活できないから、戦国大名の戦争に積極的に参加する場合もあったっていうこと。

いわば、武士は武士、百姓は百姓で兵農分離してるんだけど、貧窮民対策としての戦争。

これは一種の現代の公共事業みたいなもんで、領民を生活できるようにするっていうのも領主の務めだから、百姓も支持しただろうし、百姓の窮状を無視していれば、結局は見限られ滅びるってことになったのかも。

前に戻るけど、冬を越せそうもないってことんなって、越後にいて関東侵攻作戦が始まるんで、輸送部隊員の募集、輸送部隊なんで戦闘には参加しないんで危険はありません、なんてのが来た場合、これはもう参加するしかない。

輸送部隊員、陣夫ってやつだけど、これに採用されれば、自分一人分の食い扶持が減るわけだから、冬も越せるかもしれないし、掠奪に参加すれば、金目のもんは取り放題で戦争が終わって家に帰れば、女房、子供も大喜びでゆうこと無い。

腕に自信があって侍の目に止まって、戦闘部隊に加えてもらい手柄を立てれば、百姓から武士になれるかもしれないし、なんかの間違いで大名になれるかも、ウシャシャシャシャシャシャ夢が広がる広がる。

戦国時代は武士階級だけが戦争に関わっていたんじゃなく、一般大衆も積極的に関わっていた場合もあるって話でした。

参考文献  百姓から見た戦国大名  黒田基樹著  ちくま新書


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Posted by shigeziro703