戦国時代 冬を越せるかわからない時代
千葉県松戸市平賀に、本土寺という日蓮宗寺院がある。
この、本土寺には、中世成立の過去帳が残されていて、過去帳は、日付ごとに物故者が記載される日牌形式のもので、記載される物故者数は1万を超える。
そしてそれぞれの戒名には、その左右あるいは下に、俗名、縁者、続柄、所属、享年、死亡場所、死亡理由、生前の事績などが適宜、記載されている。
記載の年代は、室町時代中期の応永年間(1394~1428)から、戦国時代末期の天正年間(1573~92)まで、実に200年に及んでいる。

さらに記載される物故者は、下総西部を中心に上総から武蔵にかけての広範囲の地域に渡っているとともに、その階層も、大名層から在地の有力者とその関係者(縁者から下人まで)にまでわたる、幅広い階層に及んでいる。
中世の過去帳としては、物故者数、年代の長さ、階層の幅広さなど、いずれも他に類例をみない、極めて豊富な内容を持った、文字通り稀有の史料である。
この過去帳が注目されるのは、何よりも在地の民衆の記載が豊富に見られること、そのことにある。
中世については、在地の有力者層についてさえ、死亡記事を得られることは極めて限られており、ましてやこのように大量に民衆の死亡状況に関する具体的な情報を得られることは、まずないからである。
この過去帳の重要性に注目した田村憲美氏は、死亡原因が戦死や自殺などの非自然的原因によることが明記されているものを除いた4300件の記事について、死亡年月について統計分析を行った「日本中世村落形成史の研究」。
死亡年が明記されている記載を年次ごとに統計してみると、ある年だけ前後の時期と比べて異様に物故者数が突出しているものがある。
物故者数は、もちろん200年のなかで変化はみられるが、おおよそのところは本土寺の教勢に連動していると考えられる。
そうしたなかでも、物故者数が突出してみられる時期が生じている。
最もわかりやすいのは、正長元年(1428)、文明5年(1473)、永正2年(1505)で、それらの年はいずれも列島全域的な大飢饉にあたっていて、それらの年が大飢饉であったことは、他の記録類に記載されていることで裏付けられている。
そして、本土寺過去帳からわかることとして、物故者数からうかがえる、季節的な特徴にある。
物故者数を死亡月ごとに統計してみると、200年を通じてそれほど大きな傾向の変化はみられず、おおよそ春、夏は年平均よりも高い比率でみられ、秋の7月、8月から低下していき、9月、10月で最低になり、11月、12月から再び増加していくという傾向があった。
いわば春、夏に死者が多く、秋に最低になり、冬の終わりから再び増加していくという、明らかに死亡には季節性が存在していた。
そしてその季節性は、冬の終わりから夏までの、食料が収穫できない端境期に多く、夏麦に始まり秋作までの、新たな収穫を迎えることで低下していくという、食料生産のサイクルに見事に対応している。
食料が収穫できない端境期に、多くの人々が死亡しているのだから、これは食料を確保できずに餓死もしくは、食料不足を起因にして死亡する人々が多かったことを示している。
中世後期はこうした状況が常態で、正長元年などの大飢饉といわれたものは、それとも比較にならない異常な事態であったことになるだろう。
ここまで、長々と黒田基樹さんの「百姓から見た戦国大名」から引用しましたが、戦国時代の庶民っていうのは、下手したら毎年、冬が越せるかわからないっていう、極限状態のような生活だったのがわかる。
戦国時代でも、町はあったんだけど、住民が餓死しそうな状況で、ふんだんに服とか食料が売ってたっていうのは、考えらんないし、ましてやアクセサリーだの家具が売ってるわけない。
この本土寺っていうのは、千葉県の松戸市にあった寺だけど、当時の千葉県だけド貧乏で他の地域は儲かってて豊かな暮らしぶりでした、なんてわけなくて似たりよったりだったろう。
大河ドラマの麒麟が来るで、尾張は儲かっているのか、色々な物を売っている商店がいっぱいあったけど、この本土寺の記録からすると、かけ離れている。
当時は現代からすると、超格差社会だから特権階級の武士、立派なお坊さんとかお公家さん、富裕な商人に大地主とか専門の、当時の高級ブティックみたいなものが、尾張にはふんだんにあったなんて、ことがあるんだろうか。
当時のお百姓さんで、妻に子供4、5人を養っていて、その年は凶作で秋の収穫物からすると、冬を越せそうにないって場合を考えてみる。
続く

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