長篠の戦い 決戦場が信長公記と違うんじゃね

11月 20, 2020

「信長公記亅に「川を前にあて、武田四郎、鳶ノ巣山に取上り居陣候はば、何共なるべからず候を、長篠へは攻衆七首差向け、武田四郎滝沢川を越来り、あるみ原三十町ばかり踏出し、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿河衆、遠江衆、三衆の内つくで、だみね、ぶせち衆を相加え、一万五千ばかり一三所に西向に打向かい備え、互いに陣のあわい二十町ばかりに取り合い候。亅とある。

この文章の、「互いに陣のあわい20町ばかりに取り合い候亅を織田、徳川の陣と武田の陣との間隔ととらずに、武田の陣と陣との間隔ってとれば、矛盾しなくなる。

google マップ様より引用

上のように、解釈すれば矛盾しないけど、普通は———-。

google マップ様より引用

こうだろうな。

google マップ様より引用

上の写真は、手前が武田軍陣地の端で、中央よりちょっと上のガードレールがある所が連吾川で、馬防ぎの柵があったとしたら、武田軍兵士からしたら目の前です。

信長公記の記述からすると、戦いがあった日が21日だから、20日か19日に布陣したはずで、こんな敵陣の真ん前に布陣したんだろうか、又できるんだろうかっていう疑問?

そこで、一泊か二泊してるわけだけど、両軍とも敵の襲撃が怖くて、とてもじゃないけど休めなかっただろうなあ。

それに織田、徳川軍陣地の真ん前の山なんだから、当然その山には警戒、監視する兵がいただろうし、そこに布陣する武田軍も偵察する兵を先行させてたはずだから、すんなり布陣できないだろう。

敵陣の目の前に布陣するわけだから、もうその時点で戦闘状態になるんじゃなかろうか。

或いは、織田、徳川軍陣地の真ん前に布陣し始めたところで、準備万端整った織田、徳川軍の突撃を受けて、武田軍は為す術もなく敗れ去るっていう事態も十分考えられると思う。

続く


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