元禄時代の酒飲み侍
元禄時代の尾張徳川家61万9500石の家中に、朝日文左衛門重章(シゲアキ)という御畳奉行で、知行100石、役料40俵っていう侍がいました。
この人は、大変筆まめな人で元禄4年(1691年)18歳の時から、享保2年(1718年)45歳まで「鸚鵡籠中記亅(オウムロウチュウキ)という日記を書き続けました。
この朝日家の由緒は、朝日文左衛門重章の鼻祖、重虎は甲州の出で、農夫から身を起して武田信玄の足軽となって戦場を往来するが、やがて三河で戦死する。
その子、古田右衛門また剽悍無双、槍を引っ掴んで奔走奮迅、その戦功によってあるじの朝日永寿から朝日の姓を許される。
武田家滅亡ののち右衛門は、徳川家康の老臣、平岩親吉に仕え、再度の軍功によって食禄30石。
のち慶長の役で加増20石、大坂の陣で50石と加増を重ねて都合100石。
尾張徳川家御城代組同心となる。
これが文左衛門の曽祖父。
この曽祖父から祖父の惣兵衛重政、父の定右衛門重村とくだってきて、この文左衛門の代までくると、武士は戦士では最早なく、尾張藩庁に出社する地方公務員といったところ。
朝日文左衛門が書き遺した、「鸚鵡籠中記亅という変わった題ですが、オウム返しに見たまま聞いたままをそのまま、書いたっていう意味なんでしょう。
文左衛門っていう人は大変に筆まめな人だったんですが、それと同じくらい大酒飲みでした。
その「鸚鵡籠中記亅の中に、大酒飲みの尾張徳川家4代藩主吉通に関する記述がある。
4代藩主は”53次”と名付けて、53の酒盃を座右に置いていたという。
53次の盃とは、東海道53宿場の光景を一盃一盃に描いた華麗な蒔絵の盃で、お気に入りの家臣を相手に吉通が、その盃を一つひとつ飲み干して京にのぼっていくと、今度は家臣がまた53盃を飲み続けて江戸に下ってくるという趣向で、「この盃を一遍に飲むものを美とす亅ってんだから、今でいう一気飲み。
下手すると、死ぬ。
その後、この遊びに飽きた吉通は、”早飛脚”という酒盃を作らせている。
これは、1升2合入りの大盃の中に、53次全てを書き散らしたもので、「是を一息に飲む者いよいよ美なり亅だという。
世の中、とんでもない酒豪がいるもんで、藩士の坂井伴助などはこの、”早飛脚”で東海道を京にのぼり、くだり、またのぼってと、たて続けに3盃飲み干して吉通の喝采を浴びたという。
藩主も藩主なら、家臣も家臣で当時は天下泰平だったっていうことなんだろうけど、こんなことしてたら肝臓が死ぬし、早死だったろうな。
と思って、調べたら徳川吉通、満23歳で没ってあった。
太く短くで、良い人生だったんじゃね。
今んとこ、長くもないけど、毎日兵糧攻めに遭ってるような悲惨な人生より、俺かーーーー(^Д^)プギャー
参考文献 元禄御畳奉行の日記 神坂次郎著 中公新書

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