長篠の戦い くぼき所とは、どこか

11月 20, 2020

信長公記に「一八日押詰 志多羅之郷極楽寺山に御陣被居 菅九郎新御堂山に御陣取 志多羅之郷は一段地形くぼき所に候 敵かたへ不見様に段々に御人数三萬計被立置———-以下略」とある。

この中で、志多羅之郷は地形が低い所なので、敵から見えないように3万人くらい配置したって書かれている。

google マップ様より引用

上の写真をご覧のように、織田、徳川の陣と言われている所は、低い所どころか山の上なんだから、高い所に陣を布いたってことになっている。

大方の反論は、織田、徳川の陣と武田の陣との間の連吾川沿いに、布陣したっていう反論だと思うけど、信長公記には、連吾川なんて記述は出てこない。

もう一つの反論は、長篠合戦図屏風に連吾川沿いに布陣しているのが描かれているっていう事だと思うけど、あれは合戦後100年くらい経った後の想像図で、あの戦いを戦った兵士が書いたものでは無く、その戦った兵士から聞き取って絵師が書いたなんてもんでは勿論ないので、何の参考にもならないと思う。

それに、信長公記の書き方からして、「志多羅之郷は一段地形くぼき所に候」ってあるので、一部の狭い範囲じゃなくて、全体に低い所で広い場所っていうと、織田、徳川陣跡から長篠城方向の東は山ばかりの地形になっているけど、織田、徳川陣跡から西方向には平野が広がっていて、大軍を擁する織田軍にすれば、あんな狭い山ばかりの地形よりも、西の広い平野で戦った方が、よっぽど有利に戦えると思う。

google マップ様より引用

上の写真の、画面中心より右の山ばかりの地形より、左の平野の方の「くぼき所」ってしたとこの方が織田軍は大軍なんだから、戦い易いと思う。

ここで戦うなら、数の違いっていうのが、もろに出て楽勝だなって織田信長も思ったんじゃないかな。

続く


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