長篠の戦い ころみつ坂の謎
長篠城の西、豊川を越えて400mちょっとの所にころみつ坂っていうとこがある。
ここは、信長賞詩の地、設楽原の決戦の後、ここコロミツ坂において信長は長篠城をよく死守したと奥平貞昌らの戦功を讃えた、と案内板にある。
信長が讃えるのは、良いんだけど、ここが本当にころみつ坂なんだとしたら、おかしな事んなる。
信長公記に「先陣は国衆の事に候の間、家康ころみつ坂の上、高松山に陣を懸け、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門両三人、同じくあるみ原へ打ち上がり、武田四郎に打向、東向に備えられ家康、滝川陣取りの前に、馬防ぎの為柵を付けさせられ」とある。

上の写真の大きい矢印の場所がころみつ坂なんで、坂の上の高松山に家康が布陣したって書いてあるから、その坂のあたりが高松山で、ここだと織田、徳川の陣といわれている所から、ずーっと東だし、武田の陣より東で、本当にここだったとしたら、武田が渡河した直後に戦闘状態になった筈。
わかった、家康の部隊が捨て駒で、そこに武田が食いついて、その武田に織田軍が総攻撃かけて殲滅。
信長「おめえは、囮だ」家康「えっ、あんなとこじゃあ、捨て駒じゃないっすか亅
信長「援軍で来てやったんだ、誠意みせろや亅家康「わーりましたー」
家康、高松山の上に立って、大音声で
「かかってこいや、オラー亅
それを見た勝頼が
「待ってろ、ゴラー亅
これが、決戦の真相だったりなんかして。
家康は、この戦いで戦死して、その後の家康は影武者だったっていうのは、どうだろう?
話としては面白そうだけど、そんな訳無いな、有り得ない。
有り得るのは、信長公記には、ころみつ坂なんて名前じゃなかったんだけど、間違って書き写したとか、戦いから何百年も経って、信長が奥平を讃えた場所があるらしいけど、わからねえから、適当にここいら辺じゃねで、決めた場所とか。
今、マップ見ても高松山なんて名前の山は無いから、戦いから400年以上経った現在では、新たな新発見史料でも出てこない限りは、全然わからん。
只言えるのは、この古戦場の墓とか、なんとか激戦地とか、なんとかの陣跡とかも相当怪しいんではなかろうか。
続く。

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