長篠の戦い 陣城はなかった
織田信長は長篠の戦いで、陣地に馬防ぎの柵の他、空堀、土塁、切岸などの土木工事を実施して、武田軍を破ったと言われているけど、本当なのっていう話。
ここからは、平山優さん著作の「検証 長篠合戦」からの引用ですが、「これに対して、高田徹氏は、現地踏査と聞き取りを重ね、池田説を検証し、次のように述べた。設楽原古戦場(長篠決戦場)には、①確かに人為的な改変を受けたと思しき部分があり、何らかの遺構である可能性は否定できない、
②しかし、聞き取り調査を重ねると、開墾、採土のための掘削、墓地や祠などの設置、近世に村境を示すために掘られた結界、近世から近代にかけて人家(すでに撤去されている)を建てた跡地、明治以降に実施された地ならし跡、道の敷設や植林に伴う地形の改変などの事例が数多い、
③陣城の郭跡とされる平坦地も自然地形の可能性が高い、
④古戦場の陣城遺構とされるものと、各地に残る織豊系陣城遺構とを比較すると、後者は主体部分の四囲を規格的に囲うものが大半であり、前者のような円弧を描く堀を巡らせて丘陵を二分するような遺構は存在せず異質である、
⑤池田誠氏や藤井尚夫氏が図化した陣城遺構の縄張り図を比較すると、堀、郭、切岸の痕跡に関する評価には相違がある、
⑥また、池田、藤井両氏とも、陣城遺構の可能性を残す部分と、聞き取りや地形の状態等の観察でおよそ明らかになる後世の改変部分とを、図の表記で混同している、
⑦このことは、聞き取りや現状地形の観察によって、陣所遺構ではないと識別できる範囲の地形を全て陣所遺構であるかのように表記する行為といえ、資料操作の誹りを受けかねない、
⑧以上のように考えるならば、近世以来、陣城跡との伝承や記録、絵図が残り、遺構も確認できる医王寺陣所跡(長篠城攻撃に際しての伝武田勝頼本陣跡)だけが、長篠合戦における陣城、陣所遺構と判断でき、その他は地表面観察の範囲内では明確な回答は引き出すには至らない、と(高田氏前掲論文)。亅

「地元の研究者たちが結成した設楽原陣城研究会も独自に調査を進め、文献史料の再検討、陣城とされた断上山、信玄台地にある遺構について、現地の聞き取り、地籍図や地表面観察の見直しなどを重ねた。
その結果、①織田、徳川軍が大規模な城普請を行うだけの時間的な余裕はほとんどないこと、
②地元には陣城の存在についての伝承はまったく存在せず、
③また織田軍が陣取っていた断上山のうち、まったく開発の手が及んでいない場所もあり、そこにこそ遺構が多数残っていてもよさそうであるにもかかわらず、堀、土塁などの痕跡が見られないこと、
④「遺構亅と池田氏が認定された場所の多くは、明治以来の開墾による痕跡である、と結論づけている(設楽原陣城研究会「陣城はあったか 設楽原からの報告」「設楽原歴史資料館研究紀要亅第七号、2003年)
なお、設楽原陣城研究会は、池田誠氏が断上山一帯に何らかの陣城遺構があったはずなのに、その多くはすでに工場用地として整備、破壊されてしまっており、それを容認した地元市教育委員会の文化財担当者の質と責任を問うと厳しい指摘を行っていることに対し、ここは周知の埋蔵文化財包蔵地であり、整備に先立って発掘調査が行われ、調査報告書も刊行済みであることや、その際に全長200m 、高さ50cmの土塁と、深さ1m前後の堀状遺構も発掘され、長篠合戦に伴う遺構ではなく、近世の竹広村と大宮村の地境を示すための堀であると判明したとの反論をも行っている。亅
長々と引用しましたが、ここからすると、陣城には空堀、土塁、切岸などは無く、やろうにも織田、徳川軍にはそんな時間的余裕は無かったっていうこと。
もともと、「信長公記亅、「甲陽軍鑑亅には、柵の記述は有るけど、空堀、土塁などは一言も書いてなく、連吾川沿いに布陣したなんて記述も無い。
なんか、陣城の城が強調されて、城なんだから柵だけじゃなく、空堀があって、土塁もあっただろうなんて、大分膨らませた感じがする。
これらは、相当怪しいんではなかろうか。
続く
参考文献 検証 長篠合戦 著者 平山優 吉川弘文館

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