長篠の戦い 信玄と勝頼の違い
三方ヶ原の戦いで、信玄は勝ち、勝頼は長篠の戦いで大敗。
なんで、片方は勝って、もう片方は大負けって結果になったのか?
これは、また甲陽軍鑑から引用すると「其上信長加勢を九頭まで仕るに、岡崎、山中、吉田、しらすかまで取つつけて、信長被官ども居たるときくーーーーー以下略」
この時、武田軍は三方ヶ原にいて、織田信長が派遣した援軍が岡崎、山中、吉田、しらすかにいるんだけど、三方ヶ原で合戦になっても、すぐに駆けつけられる距離ではない。
岡崎から三方ヶ原までの距離が、約60km、吉田城から三方ヶ原までが約40km、しらすかから三方ヶ原までで約30kmと1日から2日はかかる筈。
甲陽軍鑑からすると、織田の援軍の位置が正確にわかっていたように書いてあるけど、そこまでわかっていたかどうかは、わからないけど、徳川軍に一撃かけて離脱する時間的余裕が有るっていう読みで、浜松城を囲まず(浜松城を包囲すると、逆に後詰に来た織田の大軍に包囲される恐れがあってハイリスク)三方ヶ原から西北にある刑部に移動して、織田、徳川の出方を覗っている。
勝頼も三方ヶ原の戦いの再現を狙って、一撃かけて織田の後詰の大軍が来る前に離脱する予定が、全然違った結果になったていう事なんだろう。
織田の先鋒部隊は着てるけど、小勢だから難なく勝てるっていう読みだったんだが、甘くなかったっていうこと。
それでも最低限の偵察部隊は出してる筈だから、武田軍の目を引くように小勢の囮部隊がいたんだと考える。

上の写真の囮と有る所が織田、徳川連合軍の陣地とされている所ですが、ここかその東隣りの山に武田の偵察部隊の目を引くように、小勢の部隊がいたんだと思う。
部隊の規模は、武田が楽に勝てると思えるように、4000くらいか。
戦いの直前に、馬場美濃守、山県昌景などの信玄以来の重臣が合戦に反対し、勝頼、長坂長閑、跡部大炊介が開戦を主張したと、甲陽軍鑑に書いてあるんで、ベテランの重臣達は小勢がフェイクだと見破ってたと思えば、一応合ってるような気がするけど、どうかな。
しかし不思議なのは、設楽原の北と南に高い山があるんで、そこに健脚な侍を登らせれば、織田、徳川連合軍の信長公記だと約4万、甲陽軍鑑だと約10万(いくらなんでも多すぎると思うけど)に及ぶ兵が見えない訳は無いって思うんだけど、そこまでしなかったって事なんだと思う。
それでも、写真の囮ってある織田、徳川連合軍陣地跡ってあるあたりか、その手前あたりまでは、武田の偵察部隊が偵察してる筈。
それじゃあ、織田、徳川連合軍の本隊はどこにいたかっていうと、囮部隊がいる山のすぐ後ろだとバレバレなので、そこから離れた西の平野に陣を布いてたんだと思う。
武田勝頼に勝てるって思わせなければ、川を渡ってくれないから。
織田、徳川連合軍陣地跡ってされている山の西には、平野が広がっているんで、そこなら信長公記だと約4万、甲陽軍鑑だと10万ていう大軍でも、楽に陣を布ける。
武田軍が囮部隊っていう餌に食らいついて川を渡ったら、囮部隊は西にいる本隊に撤収する。
武田軍が戦わずに、撤退しようとしても豊川のラインで渡河するのに、時間が掛かるから数の違いで殲滅される。
武田軍にとって、設楽原は死地。
あんな地形で、わざわざ渡河して敵の後詰軍と決戦しようなんて、判断がどうかしてる。
続く。

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