新府城の思い出
新府城、武田勝頼が最後に作った城。
天正10年(1582年)織田の大軍が攻めて来て、この城で迎え撃とうとしたんだけど、肝心要の兵隊がみんな逃げちゃって、何にもならなかった残念な城。
武田信玄の言葉で「人は城、人は石垣ーーーーー以下略」なんてのがあったけど、城は有っても戦う前に守る兵隊がいなくなったんでは、どうしょうもない。
本当に、しょうもない城。
と言ってしまうと、新府城様に申し訳無いんで、俺も昔行ったしな。
そん時の思い出を書きます。
季節は正月、前夜に甲府で泊まりやってきました新府城。
そこで泊まった、ホテルのフロントの人との雑談で「明日、武田信玄の躑躅ヶ崎館跡に行こうと思ってます亅「ああ、信玄さんの」、山梨の人って信玄って呼び捨てじゃなくて、さん付けなんだなってのが印象的だった。
大きい駐車場があって、そこに車を止めて本丸めざして登った。
ここもそうだけど、何々門跡なんてもんがあって、敵が真っ直ぐに城門に入れないように、食い違いになってたりするんだけど、これが全く往時の様子を想像できない。
ただ、草が生えてるだけとしか思えない。
これが専門家なら、こう横矢掛りがあってとか分かるのかもしれないけど、ド素人なもんで全然わからん。
そいで、なんとか本丸に着きました。
思い出しながら、書いてるんだけど、確か神社があって長篠の戦いで戦死した武将の卒塔婆が有ったような気がする。
ここまで、何にも調べずに昔の記憶で書いてるんで、違ってたらごめんなさい。
この城で一番興味があったのが、三日月堀。
新府城の縄張り図っていうのを、見るとキレイに三日月の形になってる堀がある。
縄張り図を見ると、そこそこ大きい堀だから城の上の方から見れば、楽に発見出来ると思って、あっちこっち行って目で探したんだけど、どこにあるのか全く分からない。
あんなに特徴のある三日月なんだから、すぐ見えると思ったのにどこにも無い。
まさか縄張り図が嘘ってこともないだろうし、堀が埋まって平らんなってるとかじゃあ、と思ったらあった、ありました、三日月堀。
青い堀が樹間からのぞいてる。
そうか水堀だったんだ、三日月堀って、喜び勇んで一気に駆け下りました。
ドンドン近づいてくる、三日月堀、満々と水を湛えて俺を待ってるぜ。
そんで着きました、三日月堀に。
これが、何枚もある青のビニールシート。
上から見ると、水堀にしか見えなかった。
何かの発掘調査やってて、その保護シート。
ビニールシートを三日月堀と見誤る、自分が情けなさすぎ。

上の写真は1948年、米軍撮影の新府城跡でクリックすると拡大します。
画面の中央にある黒い森が本丸跡で、そのちょっと下に三日月形の堀があります。
今はどうかわからんけど、俺が行った時は近づいても、その堀が三日月形かどうかなんて、全然分からなかった。
とは言っても、良いとこでした。
みんなも、行ったって損はないよ。😁

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