長篠の戦い 武田勝頼の勝算とは

11月 20, 2020

長篠の戦いで、両軍の兵力は色々な説が有るけれど、織田軍3万、徳川軍8千、武田軍1万5千だったとすると、武田軍は連合軍の半分以下。

この兵力差でも、武田勝頼は勝てると思ったんだろうか?

わざわざ、豊川を渡って設楽原に出て、織田、徳川連合軍に決戦を挑んだんだから、武田勝頼には彼なりの勝算が有った筈。

彼の勝算ていうのが何かって考えると、この長篠の戦いの2年前に起こった、三方ヶ原の戦いでの経験なんだと思う。

人間は神ではないんで、過去の結果から考えて未来を予想する。

未来がドンピシャで見えるんですっていう、超能力者がそばにいれば良いんだけど、まずそんな人はいない。

その過去の経験てのが、何かって考えてみると、三方ヶ原の戦いだと思う。

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に起こった戦いで、通説では織田軍3千、徳川軍8千、武田軍3万て言われている。

この戦いでは、武田軍が連合軍の3倍近い兵力の訳だから、武田軍が勝って当たり前で、これが根拠になったとは思えない。

最近、「武士の家計簿」を著された磯田道史さんが、織田の援軍は2万くらいはいて、武田軍と織田、徳川連合軍の兵力差は無かったって説を唱えられている。

甲陽軍鑑を読んで、何か根拠になるものが無いか調べてみると、こういう記述がある。

「信長加勢を九頭まで仕るに、しかも岡崎、山中、吉田、しらすかまで取りつけて、信長被官ども居たるときく殊更家康伯父水野下野も半途にひかえたるはさだめて家康と合戦をとげ勝利を得たると云とも、敵大軍をもって草臥たる味方へかかられ候はば疑いなく信玄をくれを取べく候敵の居城ぎはへ深くはたらき、負けたるに付ては大河大坂を越て退事ならず一騎一人も残る事なくうちとられ候へば、若き時よりをくれをとらず、信玄勝利のほまれみな水に成て———以下略」

簡単に現代語にすると、信長の援軍が9軍団(1頭が約2千人強で約2万)、岡崎、山中、吉田、しらすかにいて、家康に勝ったとしても、敵は大軍なので滞陣している味方と合戦になれば武田は負けるだろうし、浜松城を攻めて、そこで敵の大軍に負けてしまえば、武田軍の後ろには大河である天竜川がひかえているし、その上結構な坂まであるので、退却する事も出来ず一人も残らず殺されてしまえば、若い時からの常勝信玄の栄誉も水の泡となる」

ここには、大軍ていう記述があるので、普通同じくらいの軍勢であれば、大軍とは言わないし、それどころか織田の援軍は武田軍よりずっと多かった可能性(この方面の織田の後詰プラス徳川軍で武田軍と同数で、その後ろには岐阜に信長の本隊がいるんで、それも含めればっていう事かも)がある。

また、武田軍の後ろに天竜川があるので、退却出来ずに全滅するかもとも書いている。

もしこおなったら、長篠の戦いの武田軍の最期と同じで、長篠では連合軍の陣地を突破出来ず、総崩れになり、川で溺れ死、山で餓死っていう悲惨な結末に。

上のマップの茶色の風船に星のマークがある所が、浜松城で赤の風船の彦助堤っていうのが、延宝2年(1674年)に築かれた堤防の跡だそうで、天竜川はマップの上から下に向かって流れていますから、大雑把に(大雑把過ぎてすみません)当時の川までの距離としましたが、三方ヶ原の戦いから約100年後ですから、もっと西(マップの左)を流れていたのかもしれません。

三方ヶ原の戦いに勝てても(実際、信玄は勝ったんですが)、浜松城を攻めてる途中で織田の大軍に攻撃されれば、すぐ東が大河、西北方向が山っていうか坂んなってるんで、袋のネズミ状態でボロ負けっていう予想なんで、川を背にして戦うっていうのは、相当怖かったんだと思う。

もう一つ重要なのが、織田の大軍相手では、武田信玄でも負けるって書いてある。

やっぱり、常識的に考えて武田信玄をもってしても、数の違いは覆せないってことなんだろうな。

武田信玄なんだから、例え敵が大軍でもなんとかなりそうな気がするけど、圧倒的な兵力差では無理ってことなんだろうな。

それでも、三方ヶ原の戦いで武田信玄は見事、大勝利。

対照的に勝頼は、長篠の戦いでボロッボロに大負け。

この信玄と勝頼の違いは、何なのか。

武田勝頼の勝算の根拠について、考えてみる。

全然違うかもしれんけど、続く。

参考文献 甲陽軍鑑  著者 高坂弾正  温故堂


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