長篠の戦い 設楽原は武田軍が逃げられない地形
この設楽原ってとこを、マップで見ると武田軍が戦い辛い地形に見える。
長篠城の北、医王寺に武田勝頼本陣っていうのがあるから、そっから出て豊川を渡って設楽原に出たんだろうけど、これって背水の陣ってことんなるんじゃあ。
川を越えて出るのも大変だったろうけど、後ろに川があるから後退することもできない。
川を渡らない場合、北の山の中に入ることになるけど、細い山道なんだろうから、武田軍1万以上が逃げ込むとなったら、酷い渋滞んなって、逃げるに逃げらんないってことんなるのは、事前に十分予想出来た筈。

上のマップを見てもわかるように、東と南は豊川、北は山岳地帯になっている。
西に進めば、平野が広がっていて、このまま進めば豊川市に至る。
長篠城は豊川市から続く平野が終わる、どん詰まりの場所で、こんな所で豊川を渡って設楽原に布陣してしまえば、引くに引けなくなるって思わなかったんだろうか?
織田、徳川連合軍に勝てれば、問題無いけど、負けたら山と川に遮られて、殲滅されると思わなかったんだろうか?
鳶ヶ巣山砦が攻撃を受けても、落とされづに健在で持ち堪えていたとしても、武田軍はきつかったと思う。
武田軍が積極的に攻撃せづに、守勢に徹した場合でも、豊川っていう天然の要塞から外に出てしまっているわけだから、後方に退く事になれば、この豊川のラインに引っ掛かってしまい、織田、徳川連合軍に押し潰されるっていうことくらい分かりそうなもんだけど。
或いは、鳶ヶ巣山への奇襲攻撃が無かったとして、設楽原で武田軍が突撃せづに両軍睨み合いの持久戦になったとしても、設楽原、長篠城の北の大通寺陣地、鳶ヶ巣山砦と軍を3つに分けなければいけなくなり、小勢の武田軍としては、非常に不利になるってことくらい分かりそうなもんだけど。
武田勝頼って、そんなことも分からないようなバカだったんだろうか?
戦ってのは、出たとこ勝負でぃ、べらぼう目ってな人だったのかも。
いくらなんでも、それは無いと思うんで、彼には彼なりの勝算があったんだと思う。
次は、そのへんについて考えてみる。

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