長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦の謎 その2

11月 20, 2020

天正10年(1575)5月21日の朝、織田、徳川連合軍4000が鳶ヶ巣山砦を攻略した。

「信長公記」を引用すると、「5月廿日戌の刻、のりもと川を打越し、南の深山を廻り、長篠の上鳶ヶ巣山へ、5月廿一日辰の刻取り上がり、旗首を押立ときの声をあげ、数百丁の鉄砲をどっと放ちかけ、責衆を追い払い、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々焼き上げ、籠城の者忽ち運を開き、七首の攻衆案の外の事にて候間、敗亡致し、鳳来寺さして敗北なり。」

現代語に直すと「5月20日の午後7時から9時にのりもと川(豊川)を越えて、南の深山を廻り、21日の午前7時から9時に、長篠の上にある鳶ヶ巣山へ登り、旗を押立ときの声を上げて、数百丁の鉄砲を打ちまくった。城攻めの敵兵を追い払い長篠城へ入った。さらに城兵と一緒になって、敵陣の小屋々を焼き払ったので、籠城の兵たちは運を開いた。一方、7武将が率いる攻城兵は奇襲に狼狽して、鳳来寺さして敗走した。」

さらっと信長公記に書いてあるけど、そんな簡単にいったんだろうか。

上の写真は長篠城を撮ったもんだけど、「信長公記」によると、鳶ヶ巣山砦を落とした織田、徳川の別働隊が、長篠城に入った後に、城兵と一緒になって武田軍の小屋を焼き払ったと。

そして奇襲に狼狽した7武将率いる攻城兵は、鳳来寺さして敗走したって書いてある。

新しいタブでプレビュー(新しいタブで開く)

写真の武田勝頼本陣、医王寺、大通寺ていうとこは武田軍陣地になってるんで、鳶ヶ巣山を落とした兵はあの崖を登り降りして、城兵に合流して武田軍陣地を蹂躙したってことんなる。

身一つでも難しそうなのに、鎧兜に槍だの刀だの鉄砲持って、それに川なのにそれも難なく突破して、崖をよじ登って、休む間もなく武田軍陣地に城兵と一緒になって突撃して武田軍を追っ払うと。

不可能だと思うな。

見た目で無理だと思うけど、大目に見ても身の軽い兵隊が100人とかなんじゃあ。

それに鳶ヶ巣山が奇襲攻撃で落とされたのは、わかるとして、肝心要の武田本陣まで落とされたんでは、どうしょうもないだろう、間抜け過ぎる。

当然、医王寺の武田本陣は物資の集積場で食べ物もそこに保管してあった筈で、そこが焼かれてしまったんでは、武田軍は作戦行動不能状態んなってしまう。

それが簡単に落とされたってことは、元から守ってる兵が長篠城兵より同じくらいか、下手したらそれより、少なかったんだとしか思えない。

いや、或いは形勢不利とみて、持ち場を放棄して逃げたのかも。

てことは、長篠城を抑える兵を最小限にして、少しでも決戦兵力を確保するのを優先したってことんなんないか?

武田勝頼は相手が大軍だってのは、わかってたかどうかは、わからないけども、ある程度の人数がいるのを認識していて、それでも勝てると思ってたってのが真相なんじゃあ。

結果を知ってる、後世の我々からみると、バカみたいだけど。

参考文献  「長篠の戦い」 藤本正行著 洋泉社


にほんブログ村