長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦の謎
長篠の戦いは天正3年(1575)5月21日に三河の長篠城の西、設楽原で織田、徳川連合軍38000が武田勝頼の軍15000を破った有名な戦いです。
長篠城は豊川と宇連川の合流部に作られた城で、西と南と東が天然の堀になっていて、攻撃できる所は城の北だけに限定されています。
武田勝頼は長篠城を包囲するのに、城の北、医王寺っていうとこに本陣を置き宇連川を越えて城の南東の鳶ヶ巣山にも砦を築きました。
しかし不思議なのは、何で鳶ヶ巣山なんかに砦を築くのかっていう事です。
確かに鳶ヶ巣山から長篠城は見下ろせるんで、城内の様子は良く見えたでしょうが、大砲が有るわけではなく、火縄銃の射程距離外で攻撃する手段も無い訳だから、あんなとこに砦なんて作ったとこで、何にもならないとしか思えない。

それでも、わざわざ鳶ヶ巣山に砦を作ったくらいだから城内から、あの崖のような川を渡って、兵糧などの補給が出来たって事なんだろうか。

背中に籠を背負った兵隊が、この崖を登り降りして、やってできない事は無いようにも思えるけど、或いは城内にでかい跳ね橋でもあったんだろうか?
あんな城にそんなのがあったとも思えないし、籠を背負った兵隊で兵糧の補給が出来たとして、それを阻止するのに、鳶ヶ巣山に砦なんて作らなくても、川沿いに100人も警戒の兵隊を貼り付けとけば充分な気がするけど。
やっぱ、もしなんとか渡れたとしても増水して流れが速ければ、水死するだけで補給が出来たとは到底思えない。
実際の戦闘では、川を渡って設楽原に進出した武田軍が織田、徳川連合軍に突撃する直前に、鳶ヶ巣山砦が別働隊の奇襲により、あっさり落とされてしまった訳だけど、武田軍が川を渡らずに豊川と宇連川を防衛ラインにあてて織田、徳川連合軍に対抗した場合を考えてみる。
そうすると、宇連川の外に飛び出した鳶ヶ巣山砦が、守りにくい。
ここが織田、徳川連合軍の大軍に攻め込まれて危なくなって、戦力増強しようとしても川を渡らなきゃなんないから、守れっこない、事実奇襲にあったのを差っ引いたとしても僅か数時間で落とされている。
あんな鳶ヶ巣山なんてとこに砦を作らず、豊川と宇連川を防衛ラインにして武田が戦えば、織田信長は打つ手が無かっただろう。
浅瀬を渡って攻撃しようとしても、川の中で無防備になったところを攻撃されたら、どうしようもないし、対岸に渡ろうと向こう岸を登ろうとしたとこで、上から攻撃されれば殺されるだけ。
織田信長ほどの武将が損害ばかり増える無理な攻撃をするとは思えず、豊川と宇連川のラインで両軍睨み合いんなってるうちに、長篠城が落ちて織田、徳川連合軍は撤退っていう事んなったと思う。
この戦いは他にも謎が多いので、また書きます。

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