河井継之助率いる長岡藩を、お百姓目線で見てみる
長岡藩の藩政を領民の立場で見てみると、余りに重税過ぎてこんな藩で生活したいとは、到底思えない。
蒲原郡平賀の僧円雅の日記「慶応4年諸事書留」によると、「当国大名中、村上第一無慈悲、第二村松、第三長岡、新発田、高田は仁政、百姓随喜す。両城共、用金(用金とはその藩に急に金が必要に成った時に年貢の他に掛ける、臨時の税金)未だ頼みなし」とあって領民には苛酷であった。
とある他、村松藩では六公四民と年貢が他藩に比べて高く(長岡藩も六公四民)、幕府の公役や江戸藩邸の建て替えの際などに、年貢の他に御用金を賦課する事も多かった。
幕府領では四公六民、他領ではおおむね五公五民であるから、村松藩と長岡藩はかなりの高免といえる、とあります。
それに、時代は幕末で村松藩、長岡藩共に軍事費の調達に苦心しており、年貢の他に御用金まで課されていて、領民は骨の髄まで、しゃぶられるって事に。
これは武士の側から反論させてみれば、百姓、町人の安全を俺たちが守ってるんだから、それくらい我慢しろっていうことに成るんでしょう。
しかし、その百姓、町人の安全を守ってくれる筈の河井継之助率いる長岡藩が慶応4年(1868年)7月25日(新歴9月11日)の長岡城奪還戦の時に、長岡の市街に放火しています。
この他にも戦闘の邪魔んなるからってんで、やたら領民の家に平気で放火してる。
戦力に優る新政府軍相手に長岡城を奪還したのは河井継之助の見事な作戦てことんなってるけど、そこは良かったとして自分の藩の地元に放火までしてる訳だから、領民の支持など得られる筈もなく、その後どうやって維持していくつもりだったんだろうか?
これでは領民にしたら、安全を守ってもらえるどころか、家に放火までされたんでは、何のために無茶苦茶高い税金に耐えてきたのか分かりません。
当時の一般大衆の身になってみたら、長岡藩なんてのは疫病神もいいところ。
河井継之助をラストサムライだの偉人のようにいう人が、いっぱいいますが少しは当時の大衆の身にもなってみろって言いたい。
先祖代々お公家さんの出だとか、偉い武士の家系だとか、小作人をいっぱい使ってた地主の出だとかいう人は除く。
先祖代々水呑百姓(水呑百姓の長男の場合はまだ良いが、次男三男だと今のブラック会社よりも待遇が悪いとこに奉公に出される。女に生まれれば良いかっていうと、親が生活できなくなれば、飯盛女(売春婦)として売られる場合も有った)の出だなんて人が大半の日本なんだから、河井継之助を偉人のように崇めるのも、もうちょっと考えてよって思う、俺でした。
参考文献 越後村松藩の戊辰戦争 渡辺好明著 自費出版

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