鳥羽伏見の戦い 戦死者数
鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868年)1月3日から6日までの4日間、洛南の鳥羽と伏見で薩摩藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突した戦争です。
両軍の兵力は旧幕府軍15000 vs 新政府軍5000と言われています。
結果は新政府軍の圧勝に終わった戦いです。
俺はこの戦いの戦死者数は旧幕府軍5000人、新政府軍1000人てとこだろうって、ずーっと思ってました。
何故かっていうと、この戦いが第二の関ヶ原の戦いだからです。
天下分け目の戦い。
事実この戦いで戦意を失った徳川慶喜は、江戸に戻ると新政府軍に恭順してしまい、江戸城を明け渡して降伏して、以後新政府軍の天下となり現代に続く決定的政治の転換点となったからです。
こんな重要な戦いなんだから、両軍共に必死こいて戦って旧幕府軍側は5000人くらい戦死者が出たとこで壊滅状態んなって敗走、新政府軍側も勝ったとはいえ相当な打撃を被って1000人くらい戦死したんだろうなって思ってました。
ところが野口武彦著 鳥羽伏見の戦いには新政府軍の戦死者約100人、旧幕府軍戦死者約290人とありました。
必死こいて戦って、この戦死者数は有り得ない。
これからすると、安全を旨とした戦闘法。
とにかくケガしないように極力戦わない、敵が来たら取りあえず逃げるか隠れる、強気になるのは相手が孤立していて味方が大勢いる場合か、敵がケガして動けない時に限るってのが実態だったんでは。
そうじゃなかったら、こんなに少ない戦死者で済む訳がない。
その証拠と言ったらなんだけど、彼らの末裔である日本軍の戦い方に関する米陸軍軍事情報部の戦訓広報誌Intelligence Bulletin(IBと略) 1944年4月号 「戦闘における日本軍の特性と反応」で東部ニューギニアブナ作戦の従軍者は「平均的な日本兵」について「奴は決定的な特徴を持っている。勝ち目がないと明らかに死ぬのを嫌がり、総崩れになると豚のように喚いた。勝てそうだとなると粘り強く戦う」とある。
また同じくIBでソロモン諸島ニュージョージア作戦に従軍した米軍情報将校も同じ記事で、日本兵は接近戦を恐れ、敵部隊が近づくと逃げたと報告している。
その中で「奴らは接近戦を恐れており、よく偽装されたタコツボか要塞化された陣地にいない限り我が部隊が近づくと逃げた。射撃は下手で50ヤード(45.7M)かそこら離れていても安全だった」とある。
またこの戊辰戦争当時の新政府軍参謀の山県狂介は「越奥戦争見聞録」の中で、「薩長の兵は、死に及び候迄も引かせ申さず候。尾州、加州は敵を見候らわば退き、何万人御座候らいても御用に相立ち申さず。頼みと相成り候は松代藩のみ」と書いている。
現代語に訳すと、薩長の兵隊は死んでも逃げないけど、名古屋とか金沢の兵隊は敵を見ると逃げるんで、何万人いても役に立たないけど、松代藩だけは頼みに成るって事。
勿論誇張もあるだろうけど、こんなところが実態だったんでは。
こっから考えると戦国時代の有名な戦闘の戦死者数も、言われている数の10分の1以下ってとこなんだと思う。
桶狭間の戦いだの厳島の戦いも、大軍率いてたのに本陣直撃されたら、あっという間に大変だーなんて事んなって、みんなあっという間に逃げちゃって、エライことんなったっていうのが本当んとこなんじゃあ。
しかし鳥羽伏見の戦いでは、両軍2万で戦って、戦死者両軍足して約400人なんだから新政府軍も旧幕府軍も安全を旨とした戦い方だったんだろうけど、その末裔の日本軍が第二次世界大戦でサイパン島、硫黄島、沖縄で玉砕っていう名の全滅。
軍隊内リンチで脱走なんてしたら村社会の日本では両親が村八分んなって生きてけないし、降伏なんてとんでもないっていう国んなって、皆殺しにされるまで(玉砕)無理やり戦わされるんだから恐ろしい国。
こんなんで日本の近代化なんて言ってんだから、到底日本が近代化されてるなんて思えない。
今日はテレビや映画でやってるような勇敢な戦い方なんて、昔から日本人はしてこなかったよって話でした。
参考文献
「鳥羽伏見の戦い」 野口武彦著 中公新書
「日本軍と日本兵」 一ノ瀬俊也 講談社現代新書
「越後村松藩の戊辰戦争」 渡辺好明 自費出版

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