河井継之助 異なる視点から評価してみる
河井継之助、この人長岡が生んだ傑物だの英雄だの言われて司馬遼太郎の小説の峠あたりから人気が出てきたんだろうけど、どこが良いのか全然わからない。
事実戊辰戦争が終わった後の市民の評価は、長岡を戦火に巻き込んだとんでもない男、長岡藩を破滅に晒した奸臣っていう評価が多くて好意的なものなど、殆どないんじゃなかろうか。
それも当たり前で自分の家が燃やされたのに、それを主導した人間に好意を持つなんて人は滅多にいないだろう。
それがなんで人気に成っていくかっていうと戦争が終わった後、大損害を被った人達はあの河井って野郎のせいで家は燃やされるは、大変な目に遭った、死にやがれ、ああもう死んじゃってるのか、ざまあみやがれってなもんだったろうな。
その後、ドンドン何十年も時間が経っていく間に直接戦火を受けた人達も死に絶え、その子や孫そのまた曾孫のそのまたなんていう世代になってくると、先祖の苦労や悲しみなどすっかり忘れてしまい長岡の傑物だの偉人だのっていう、俺に言わせればとんでもない評価になっていく。
時間が経っていくと人は受けた痛みを忘れて行くっていうこと。
ましてや、何世代も代わってしまえば当時の事を知ってる人もいなくなり、郷里に甚大な痛手を負わせたこんな人が英雄視されるなんてことに。
戦争の契機となった小千谷慈眼寺の会談なんてえのがあった。
これは慈眼寺ってとこで新政府軍監の土佐藩の岩村精一郎と長岡藩の河井継之助が会談したもので、ここで河井は武装中立を主張したが岩村に全く受け入れられず、決裂し戦争に至った。
若い岩村が田舎の藩の家老の河井を軽視し話を聞かないのが悪いだの、武装中立を聞かない岩村がおかしいだのの話を聞くけど、考えられません。
この時、岩村が武装中立っすか、こっちはそれで結構ですからってんで、長岡をそのままにして八十里越とか津川口から会津に侵攻していくなんてのは絶対有り得ない。
そんな事をしたら官軍の補給ラインが寸断されてしまい、えらい苦境に陥ることんなる。
こんな話を河井が持ち出してきたことで、官軍の味方になる気は全然ないんだな、このまま会談を重ねても時間稼ぎに使われるだけだなっていう判断になったんだろう。
これで会談決裂となったのは至極当たり前で、何で岩村が批判されるのか分からない。
岩村が河井に求めていたのは、長岡藩が官軍の先鋒になるかそれが駄目なら、武装放棄して降伏することのどちらかだった筈。
その中間の武装中立なんて論外で、こんなんで時間稼ぎなんてできる訳もないし実際その通りんなった。
ここで岩村が河井を拘束すれば良かったなんて話があるが、そこまでやるのは卑怯過ぎるっていう常識的な判断で批判されるのは逆に可哀想んなってくる。
こんなもんは岩村を貶めることによって、河井を持ち上げてるだけ。
この会談決裂で戦争んなる訳だけど、陣地を作った場所が長岡南方の妙見ていうところ。
ここは信濃川と山に挟まれて凄く道路が狭くなっている場所で、防御陣地を築くならここしかないってところ。
ここを突破されると、後は遮るもののない平野で長岡城まですんなり行ける。
これは長岡城を守るっていうより、長岡の街を守りたかったんだろうな。
城だけ守っても街を失ったんでは意味がない、なんたって武士は百姓、町人を守ってやってるから年貢を取り立ててるっていう大義名分があったんだから。
ここで暫く官軍の侵攻を阻止していたんですが、予想通りと言いますか兵力不足をつかれて長岡西方の関原ってところから信濃川を渡河されて長岡城をあっさり落とされます。
長岡を失った、長岡、米沢、会津、村松等の同盟軍は長岡の北に後退し加茂に本営を置き、見附と三条の境の山を防御ラインとして官軍と対戦を続けます。
長岡城を落としたとこで少々ハイリスクですが、官軍がそのまま同盟軍を追尾していけば同盟軍は総崩れになりそこで戦争は終わったかもしれません。
そうはならなかったんで、一息ついた同盟軍は長岡奪還に向けて見附と(三条っていうか市町村合併して下田村っていうのはなくなったけど)下田の境の赤坂峠っていう低い山、ここを突破して見附に攻め入る作戦を開始。
しかし勝てません、同盟軍は官軍に勝てない。
何回も攻撃するんですが、たんびに負ける。
損害の比率も 官軍 1人 : 1.5~2人 同盟軍 て感じで兵力が少ないのに損害ばかり増えて、この傾向はこの戦争の最後まで続きます。
そんな中々勝てない同盟軍ですが、それでも見附の西北に位置する今町を落とします。
これにより、背後に刈谷田川を背負う格好になって戦い辛くなった官軍は、思い切って刈谷田川のラインも捨て、その約1.5km後方の猿橋川まで防御ラインを下げることとします。
このあたり勝てなくても負けなければ良いという山県有朋の戦術なんでしょうか、渋い、流石は長州で武士階級の最下層(足軽以下で上級武士から見ると虫けら同然)から身を起こして最終的に長州閥の頂点まで上り詰めただけはあります。
その後約二ヶ月近く、この防御ラインの他に長岡を直接攻撃される峠、同盟軍側の三条を衝かれる峠等で持久戦となりますが、次第に官軍側の戦力は増強されていきます。
このままでは同盟軍はジリ貧で官軍に押し切られるのは、目に見えていますから河井は一か八かの賭けに出ます。
見附と長岡の間に位置する八丁沖っていう沼のような低湿地帯を一挙に抜けて、長岡を奪回するっていう作戦です。
この場合の最重要ターゲットはただ長岡を奪回しただけでは、戦力に優る官軍に簡単に奪い返されるのが落ちですから、官軍の軍を再編成できない位に徹底的に叩きのめすっていう事だったでしょう。
河井も覚悟していたでしょうけど、一旦長岡を奪い返せても官軍を殲滅するのはやっぱり無理で、長岡藩も無理しただけあって甚大な損害を受け、河井自身も重傷を負い結局は敗退することになります。
これがなかったとしても、同じ頃同盟軍の最重要軍事物資の補給地点である新潟を官軍艦隊に上陸され占領されるっていう致命的な事態になってますから、完全に詰んでる状態。
新潟が落とされれば、外国からの武器の輸入も出来なくなり北の新潟と南の長岡方向から同盟軍はハサミ打ちされる格好ですから、袋のネズミで殲滅されるのは時間の問題。
最早同盟軍は勝負あったで総崩れになり、河井継之助も会津に落ちのびる途中で鉄砲傷がもとで命を落とします。
抗生物質が無い時代ですから、死因は敗血症か破傷風でしょう。
今なら死なずにすんだんじゃないかなあ、そこは可哀想。
俺が、この人物が嫌いなのは庶民の苦労を考えないから。
当時の越後では、圧政を行う藩として、一に村上、二に長岡、三に村松っていう言葉があって過酷な藩政を行うので有名。
村上は無慈悲と言われるくらいに酷かったと伝わる。
天領では四公六民、その他の藩領では五公五民だったっていうのを聞いたことがある。
その中でも酷いんだから、どんだけ重税なんだ。
この国の歴史教育、テレビ、小説でも織田信長がーだの豊臣秀吉がーとか、徳川家康がーとかばっか語られて、まるっきりの天下人史観。
当時の庶民の生活がどうなってたかなんてのは、一顧だにされない。
本当は、それが一番大事だと思うんだけど。
この河井っていう人が何を目指していたのかも、よく分からない。
取りあえずは逆賊の汚名を着せられた会津を救うっていう事だったんだろうけど、薩長に勝てたとしてその後どうする気だったのかも全く分からない。
薩長と同じように天皇を押さえてっていっても、本来が佐幕だから慶喜に代わって、徳川の誰かを将軍に?
いやあ最早将軍てのは無理で徳川の誰かを何かの偉そうな役職に祭り上げて、自分達の合議制にしてやっていくつもりだったのか、さっぱり分かりません。
また酷いのが、この長岡藩の殿様の牧野っていう奴。
長岡で戦闘が始まる前に危険なので、会津に避難していた。
最高責任者なんだから、藩と運命を共にしたらどうだと思うけど危険と責任は部下に任せて自分は絶対に安全なとこにいる。
実際、戦後官軍に戦争責任を追及されても河井等の佐幕派におっかぶせて知らんぷり。
これは、当時も今も日本の悪い伝統。
それでも河井は負けたから命まで失ったが、勝てば全然違っただろう。
謂わばハイリスクハイリターン、これは兵士もおんなじで上手くいけば政府の高官にも成って良い暮らしが出来たかもしれない。
薩長に勝てたらの話だけど。
それが庶民だと戦火で住んでる家が焼かれたり、最悪の場合軍事物資の輸送を担当する軍夫に動員されたりして、運が悪ければ戦闘に巻き込まれて殺された。
こっちの庶民はハイリスクノーリターンで地獄的に酷すぎ。
河井継之助に共感する人達もド庶民の末裔がほとんどなんだから、ご先祖様の苦労に思いを巡らせてもうちょっと考えてねっていう話でした。


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