上杉景勝 戦国一運のいい武将
上杉景勝、弘治元年(1556年)上田長尾氏に生まれる。
おじさんが、上杉謙信で母親が謙信の実の姉。
おじさんの謙信が結婚していず、従って子供がいないので養子に迎えられる。
天正6年(1578年)、おじさんの謙信が急死。
謙信が後継者を指名していなかったので、もう一人の養子景虎(小田原北条氏の当主氏政の弟で初めは人質として来たが、後養子となる)との間で後継者争い勃発で御館の乱となる。
どうも開戦は景勝側からだったらしく、春日山城内で景虎側を問答無用で先制攻撃。
西の加賀で織田軍と戦闘状態になっていて、国内で内戦なんてやってる場合じゃないと思うけど、話し合いで景勝が後継者で決まりとはなりそうもなかったんだろうな。
或いは、自分が謙信の甥っ子で片方の養子の景虎は元々人質上がりなんだから、速攻で勝てるっていう読みだったか?
この内乱が終結するまで2年近くかかり、その間に能登、加賀を失い越中にまで織田軍に攻め込まれ、武田勝頼に北信、東上野の割譲などで上杉の国力一挙に失墜。
天正10年(1582年)3月織田信長の大攻勢により同盟者の武田勝頼あっけなく滅亡。
武田の滅亡により、越中からの織田家北陸方面軍だけでも大変なのに、北信からも織田家の攻勢にさらされることに。
それに重ねて景勝を見限った越後の北、新発田重家の内乱もあり上杉滅亡の絶体絶命の危機に。
本来は、ここで終わった筈なんです。
越中上杉方最後の拠点の魚津城を織田家北陸方面軍に落とされ、北信からも織田軍が春日山城を衝き、北からは新発田重家の内乱軍が春日山を目指す。
越前の朝倉、甲斐の武田の滅亡時を見てみると、これは完全に負けた、逆転は絶対に無い、この家は滅びると思われたら、累代の家臣、従属していた国人衆もあっという間にみんな寝返って、籠城しようとしても自分を守ってくれる兵隊すらいなくなり滅亡、景勝も完全にこのパターンで終わった筈。
これは現代から考えると、主家を見限って敵に寝返るなんて酷すぎに見えるけど現代の馘首は会社辞めさせられる(これでも大変なんだけど)だけだけど、当時は本当に殺されてさらし首に。
これは、本当に極限状態でやむを得ない面がある、カッコ悪いけど。
そこに奇跡が起きた、そう本能寺の変。
越後国境に押し寄せていた織田軍が、潮が引くように消え失せた。
本来、天正10年に景勝は織田軍に殺され、上杉家は間違いなく滅亡した筈。
そうなれば彼の評価は、御館の乱で謙信の甥っ子でありながら、まるっきり人望が無く2年も内乱に明け暮れ、やっと勝てたと思ったらその後の論功行賞も無茶苦茶で上田衆っていう自分の派閥ばかり優遇し新発田重家の内乱を招き、越中、能登、加賀、北信、上野と失陥し自滅した愚将っていう評価んなったと思う。
血の繋がりのある甥っ子とまるっきりの他人、普通甥っ子に味方したくなるでしょう。
現代の選挙でも日本では、まるで実績の無い2世、3世でも地盤を受け継いで選挙はやたら強い。
それなのに景勝って人質上がりの景虎に当初互角の勝負に持ち込まれるなんて、よっぽど嫌われ者だったとしか思えない。
病的な性格で人望のじの字もなかったんだろう。
しかし奇跡っていうのは、たまーに起きるんだね、滅多にないから奇跡なんだけど。
現代で言うと、新型コロナで会社が倒産して貯金も無くて首でも吊ろうかってくらい困ってたら、いきなり宝くじがまとめて当たって数億円転がり込んで来たって感じかな。
当時の景勝の心境は明智光秀グッドジョブ、ありがとーてなもんだったろう。
明智光秀がいなかったら、天正10年で滅びた筈の上杉が会津120万石、豊臣政権の5大老になり、関ヶ原の戦いで30万石に減封されるも幕末まで残ったんだから、感謝の印として米沢で毎年明智光秀祭りでもやってれば良かったろうに、運だけみたいになるから、みっともなくてやらなかったのかな。
上杉景勝嫌いだなあ、全然笑わなくて陰気な男っていう印象。
運も実力のうちっていうけど、この人は運だけだと思う。


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